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SF ・ 約6分

海底図書室の返却期限

橘いお

海底図書室では、返却期限を百年に設定している。

最初にその決まりを聞いたとき、夏海は冗談だと思った。けれど先輩司書は真面目な顔で、貸出カードの「返却予定日」の欄に百年後の日付を書いた。

「海の中では、本より先に人の暮らしが変わるからね」

百十二年前、沿岸部の大半が海に沈んだ。人々は高台へ移住し、都市は陸上に建て直された。一方、旧市街の中心にあった市立図書館は、密閉設備を備えた海底施設として残された。沈んだ家並みの記録を保管するためだった。

図書館へ向かう小型潜航艇には、一日に二便しかない。透明なトンネルを抜けると、魚の影が窓を横切り、遠くにかつての信号機が見える。緑の灯りを失った交差点を、今はエイが静かに曲がっていく。

夏海は三十歳で司書になった。それまでは地上の地図会社で働いていた。新しい埋立地の地図を描く仕事は好きだったが、工事のたびに古い地名が消えていくのを見るのがつらかった。図書室なら、消えた場所の名前をそのまま置いておける気がした。

返却棚はいつも空だった。百年前に借りた人がまだ生きていることは珍しいし、読み終えた本を返すためだけに海へ潜る人も少ない。夏海は朝の点検で、空の棚の埃を払うのが習慣になっていた。

その朝、棚の中央に一冊の絵本が置かれていた。

赤い屋根の小さな家が表紙に描かれた、背の薄い絵本。水圧対策用の透明な貸出ケースに入っており、返却印だけが今朝の日付だった。

貸出記録を開くと、九十九年前の冬。借りた人は「佐伯千景、六歳」と記されていた。住所の欄には、今は海図にしか残っていない「小船町三丁目」の文字があった。

夏海がケースを開くと、潮ではなく乾いた紙の匂いがした。最後のページに、子どもの筆跡でこう書かれている。

「このまちは、うみのしたでもねむっていません」

貸出時に書かれた文字ではなかった。鉛筆の線が、絵本の色に比べて妙に新しい。返却者が最後に書き添えたのかもしれない。

防犯記録を調べると、昨夜の最終便以降、図書室には誰も入っていない。朝の清掃ロボットも、返却棚の前は通っていなかった。さらに不思議なことに、本のケースは海底施設の識別タグがついていなかった。

「古いものだからでしょう」と整備員の南は言った。「昔はタグなんてなかったんです」

夏海は頷いたが、違和感は消えなかった。九十九年前に借りた本を返したのは、誰なのだろう。

絵本の挿絵には、赤い屋根の家と、四角い窓、二本の煙突、入口のわきの白い鉢が繰り返し描かれていた。どのページでも背景の建物が少しずつ違う。物語が進むにつれて、通りの看板が増えたり、店が閉じたりしている。

夏海は館内の古い地図を広げた。実在する建物と絵本の挿絵を照合すると、赤い屋根の家は図書館の北東八十メートルにあったことがわかった。現在は地盤の影に隠れていて、通常の調査ルートから外れている。

昼休み、南に相談すると、彼は工具箱を閉じた。

「危険かもしれません。でも地形調査なら許可が出るでしょう。私も行きます」

二人は点検用の小型艇に乗り、図書館の北側へ進んだ。窓の向こうの砂地には、割れた食器や、錆びた自転車の輪が横たわっている。学校の門を抜け、崩れた塀を回り込むと、海草の陰に赤茶色の屋根が現れた。

家の形は、絵本に描かれていたものとほとんど同じだった。

「ここまで残っているなんて」

南が小さく息を呑んだ。屋根の上には貝がびっしりついていたが、玄関の白い鉢だけはなぜか倒れずに立っていた。

玄関脇の古い郵便箱には、薄い銀色の筒が挟まれていた。潜水用の作業腕で引き出すと、中には耐水紙でできた短い手紙が収められていた。

「ほんをかえすころ、わたしのまちをしっているひとはいないかもしれません。そのときは、このまちにいたひとのことを、ひとつだけはなしてください」

字は絵本の最後のページと同じだった。その下に、子どもの字とは別の、丸く整った文字が続く。

「千景は転居先で長く暮らし、九十七歳で亡くなりました。彼女の希望により、返却期限の一年手前でこの手紙を置きます。孫・佐伯凪」

夏海はしばらく手紙から目を離せなかった。返却した人が誰かはまだわからない。けれど、家族が何十年も絵本と約束を守っていたことだけは伝わってきた。

帰還後、夏海は貸出システムの照会窓口に問い合わせた。翌日、地上から返事が来た。凪という人物は確かに生きており、近くの島の養護施設で働いていた。返却したのは彼女だった。昨夜、旧式の調査艇で図書室の保守搬入口に寄ったという。

「入口の鍵は祖母が持っていました。昔、あの図書館でお手伝いをしていたそうです。無断で入ってしまい、すみません」

通信画面の凪は、祖母に似た目で笑った。「ちゃんと返したら、あの頃の町がまだどこかにあるって、証明できる気がして」

夏海はその言葉を、館内の掲示板に載せてもいいか尋ねた。凪は少し考え、「祖母が喜ぶと思います」と答えた。

一週間後、地上の小学校で読み聞かせが開かれた。夏海は絵本の複製を持ち込み、赤い屋根の家の写真を子どもたちに見せた。

「海が来る前、この町では朝、窓を開けるとパンの匂いがしたそうです。港の坂道には小さな花屋があって、雨の日は子どもたちが店の軒下で空を待っていたそうです」

「魚は、そこにもいたの?」と男の子が聞いた。

「まだいなかったと思う。でも猫はいたかもしれないね」

すると子どもたちは口々に、海の下の猫の話を作り始めた。絵本のページに載っていない町の続きを、楽しそうに語った。

夏海は久しぶりに、地図が増えるような感覚を覚えた。地面の形を描くだけが、場所を残す方法ではないのだ。

図書室に戻り、彼女は貸出記録の備考欄を開いた。「返却済み」と印字された横に、一行を加える。

「一人の読者から、次の読者へ。町の記憶を引き継いだ」

返却期限まではあと一年だった。それでも夏海は、貸出記録を閉じなかった。

図書室の大きな窓の向こうで、一匹の魚が赤い屋根のほうへ泳いでいった。誰も住んでいない家の窓に、午後の光が落ちていた。

まだ話は終わっていない、と夏海は思った。場所を覚えている人が一人でもいれば、町は完全には沈まない。

おしまい

この作品は、余白文庫のオリジナル短編です。

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