ミステリー ・ 約6分
消えた二分間
黒井 理
終電の発車時刻は、二十三時四十八分だった。
山あいの小さな駅で、海野が最後の改札を閉めようとしていた。十一月の雨はホームの屋根を細かく叩き、線路の向こうの街灯を滲ませている。廃線の話が出てから、夜の駅を利用する客はますます減った。
海野はこの駅で働いて十四年になる。今夜が一人で担当する最後の夜勤だった。来月から新しい自動改札が入り、駅員室も無人化される。父が四十年整備してきた古い大時計も、取り外されることが決まっていた。
父は時計職人だった。駅に勤めていたわけではないが、月に二度、油の匂いがする道具箱を持ってホームへ現れた。海野が子どもの頃は、父の仕事を見学するためだけに改札をくぐったものだ。
ふと見上げると、ホームの大時計は二十三時四十六分で止まっていた。海野の腕時計は四十八分を示している。列車はまだ到着していない。遠くで踏切が鳴る気配もなかった。
「二分、盗まれましたね」
背後から声がした。
灰色の帽子をかぶった老人が、改札の外に立っている。雨に濡れた気配もなく、古い厚手の外套を着ていた。老人はポケットから一枚の切符を差し出した。
券面には今日の日付と、二十三時四十七分の印字があった。
「これで終電に乗れますかね」
「お客様、券売機は二十三時四十五分に精算を終えています。この時刻に発券されるはずがないんですが」
老人は不思議そうに切符を眺めた。「それなら、いったい誰が売ったんでしょう」
海野は駅員室に戻り、券売機の履歴を調べた。最後の取引は二十三時三十九分。精算記録にも異常はない。監視カメラでは、四十五分以降、改札前を横切った人影はひとつも映っていなかった。
ただし、そこに老人が立っている今この瞬間さえ、画面には映っていなかった。
心臓が一拍、重く打った。
「失礼ですが、どちらからいらしたんですか」
老人は答えず、ホームの時計を指した。「あの針は、長く動いていましたね」
「父が手入れをしていました」
「そうでしたか」
時計の針の隙間から、小さな銀色の歯車が見える。父は手入れのたび、海野に向かって言ったものだ。『時計は時間を作らない。ただ、みんなが同じところを見られるようにしている』
父が亡くなったのは先月だった。工房を片づけていると、使いかけの修理帳から走り書きの紙片が出てきた。『時計が止まるとき、誰かが時間を欲しがっている』。海野は意味がわからず、財布に挟んでいた。
老人から切符を返してもらい、海野は裏を見た。薄い青字で、『四十七分、下りホームにて』と書かれていた。父の筆跡に似ていた。
「父をご存じなんですか」
「知っているとも。あの人は、待つのが得意だった」
老人の答えに、海野は息をのんだ。
子どもの頃、父に一度だけひどいことを言ったことがある。駅の時計の修理が長引き、運動会の徒競走に来てくれなかった日だ。『時計のほうが僕より大事なんだ』。父は何も言い返さず、次の休みに公園で走り方を教えてくれた。
大人になってからも、きちんと謝れなかった。
「四十七分に、何があるんです」
老人は視線をホームの端へ移した。雨に霞むベンチの下、赤い傘が一本落ちていた。海野はさっきの巡回で見た覚えがない。
近づくと、ベンチの陰で小さな女の子が膝を抱えていた。十歳くらいだろうか。濡れた靴の片方が脱げ、顔色が悪い。少女は呼吸を整えようとしているのに、うまく息が吸えない様子だった。
「大丈夫? おうちの人は?」
「お母さん、向こうの階段に行った。薬が、鞄にあるはずなのに……」
声が途切れた。海野はすぐに駅員室から救急へ連絡し、上着を少女の肩にかけた。迷わず対応できたのは、以前、駅で救急講習を受けていたからだ。ホームの非常通報設備を確認しながら、母親を探す放送を流した。
数分したはずなのに、駅の時計は二十三時四十六分のままだった。携帯電話の画面も、いつの間にか四十六分を示している。海野は目をこすった。
「時間が、戻ってる……?」
そのとき、階段のほうから女性が駆け寄ってきた。少女の母親だった。水を買いに行っているうちに娘が見えなくなり、別の出口を探していたという。二人が再会し、救急隊への引き継ぎを進める間、老人は離れた場所で黙って立っていた。
少女が母親の手を握り直したのを見て、海野はようやく息をついた。
「あなたが教えてくれたんですね」
振り返ると、老人は帽子を深くかぶった。「私は何も。ただ、あなたが時計を見たのでしょう」
「父は、よくそういう言い方をしました」
老人は笑った。口元の形が、ずっと昔に見た父の笑い方に似ていた。海野の喉の奥が熱くなる。
「お父さん、ですか」
その言葉を口にした途端、ホームの時計がかちりと鳴った。分針が二目盛り進み、二十三時四十八分を指す。老人の姿はなかった。床には水滴ひとつ残されていない。
海野は切符を握りしめた。確かに手の中にあった切符の印字だけが、二十三時四十九分に変わっている。
終電は二分遅れで到着すると放送が入った。救急隊が少女を連れて駅を出ていく。ホームには、さっきまでよりも静かな雨の音が戻った。
海野は駅員室の引き出しから父の修理帳を取り出した。最後のページには、ほとんど読めないほど小さな字でこう書かれていた。
『時計の針が動かなくなっても、待っている人がいる限り、この駅の時間は終わらない』
海野はペンを取り、その下に一行を足した。『今夜、誰かが二分を借りていきました。ちゃんと役に立ちました』
切符を修理帳に挟み、ホームの時計を見上げる。秒針は、ひとつひとつ規則正しく進んでいた。
改札を開けると、終電のライトが雨を切って近づいてきた。時計の上では二十三時四十九分。たった一分の違いなのに、その夜、海野にはそれが誰かから贈られた長い時間のように思えた。
おしまい
この作品は、余白文庫のオリジナル短編です。
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