恋愛 ・ 約7分
コーヒーの冷める前ではなく
小鳥遊 澪
火曜日の喫茶店は、いつも少し空いている。
その店の名前は「空席」。駅から商店街に向かう途中、クリーニング店と文房具店にはさまれた小さな喫茶店だ。入口のベルは低い音を立て、店の奥ではいつも古い時計が四分ほど遅れていた。
私はその店で、三年間、ほとんど毎週火曜日を過ごしてきた。
最初の火曜日は、働き始めて二か月目の梅雨だった。駅で転んで傘を壊し、急な雨から逃げるように店へ入った。窓際の二人席には、一人でコーヒーを飲む男の人がいた。相席してもいいか尋ねると、彼は本を閉じて椅子を引いてくれた。
「雨が強いですね」
「さっきまで晴れてたんですけどね」
その日は、それだけだった。
翌週も雨だった。店へ入ると彼が同じ席にいた。私に気づいて少しだけ会釈した。さらに翌週、注文を取りに来た店員が、何も言わず二人分の水を持ってきた。それで、どちらからともなく火曜日の席が決まった。
彼はいつもホットコーヒーを頼み、私はアイスティーを頼んだ。夏でも冬でも変わらない。店員の佐藤さんは、その習慣を覚えて、冬になると私のグラスの結露を拭くための紙ナプキンを多めに置いてくれた。
彼について知っていることは、少しずつ増えた。名字は原田。印刷会社で働いていて、休日には小さな町の古い地図を集めている。家族の話はあまりしない。好きな映画は何度も同じ場面を見返してしまうタイプのもので、食べ物は辛すぎなければだいたい好きだという。
私のことも、彼は少しずつ知った。仕事を始めたばかりの頃、私は他人の名前をよく間違えた。会議で言葉が出なくなると、自分でも驚くほど焦る。考えごとをするとストローの袋を折ってしまう。
私たちは、あまり大切なことを聞かなかった。
「今日、雨が降るらしいですよ」
彼がそう言えば、私は「傘は持ってます」と答えた。天気の話なら、間違っても何も失わない。それがありがたかった。
二年目の冬、私が仕事で大きな失敗をした火曜日がある。店に着いても、私はコートを脱げなかった。彼は一度だけこちらを見て、注文を二人分伝えた。しばらくして、いつものアイスティーの横に、小さな焼き菓子が置かれた。
「頼んでないです」と私が言うと、彼は「今日は売り切れる前だったので」と答えた。
彼は、落ち込んでいる理由を尋ねなかった。だから私は初めて、失敗のことを自分から話した。長く話したあと、彼は「それは悔しいですね」と言った。励ましも助言もなかった。ただ、悔しいと認めてくれたことが、何よりうれしかった。
以来、彼に会える火曜日が少し楽しみになった。楽しみだと気づいた途端、何となく言いづらくなった。
三年目の十月、窓際の席に小さな白い封筒が置かれていた。「引っ越しのご案内」と青い文字で印刷されている。彼の会社のロゴが右下にあった。
私は見ていないふりをした。彼も封筒を鞄にしまった。いつもより会話が少なく、コーヒーの湯気だけが二人の間をゆっくり上がった。
帰り道、駅のホームで私は、自分が何を恐れているのか考えた。彼が遠くへ行くことが悲しいのか。それとも、いなくなったとき初めて、この三年間に名前がついてしまうことが怖いのか。
翌週、佐藤さんが注文を聞きに来たとき、突然笑った。
「お二人、三年も同じ席なのに、いつになったら同じものを飲むんですか」
彼は驚いて、私も思わず吹き出した。佐藤さんは慌てて手を振った。
「すみません、余計なことを。でも火曜日だけ、お二人の注文を一度も間違えたことがなくて。自慢なんです」
「じゃあ今日は、アイスティーにします」
彼が言った。
「それなら、私はホットコーヒー」
そう答えた自分の声が、いつもよりずっと明るかった。
運ばれてきたカップは、私には少し熱すぎた。彼のグラスでは氷が高い音を立てていた。彼はストローを持ち上げて、「こういうの、何だか落ち着かないですね」と笑った。
「私もです。でも、悪くない」
それからしばらく、二人とも違う飲み物に慣れようとした。私が熱いカップを両手で包むと、彼は「冷めるまで待ちますか」と聞いた。
「今日は待たないことにします」
一口飲むと、苦くて少し顔をしかめた。彼は笑いをこらえながら、水を差し出した。
「来月、引っ越します」
彼はカップを見つめたまま言った。
「知ってます」
「会社の支社が、少し遠くに移るんです。週末にしか戻れないかもしれない」
「そうなんですね」
私の口から出たのは、また安全な返事だった。彼は頷いて、もう一口アイスティーを飲んだ。
このまま終わるのだ、と私は思った。誰も嘘をついていないし、誰も嫌いになっていない。だからこそ、何も始まらずに終わってしまうことがある。
「原田さん」
私が呼ぶと、彼は顔を上げた。
「私、火曜日が好きなんです」
「僕もです」
「このお店だけじゃなくて。原田さんがいる火曜日です」
言い終えるまで、心臓がやけにうるさかった。窓の外で、通学帰りの学生たちが笑っている。古い時計は、今日も四分遅れていた。
彼はストローを置いた。
「僕は、あなたが来ない火曜日には、ここで本を開いても一行も読めませんでした」
「来ない日なんてありましたっけ」
「二回。ひどい風邪の日と、去年の年末です」
覚えていたことに驚いた。私は年末の一回だけと思っていた。
「引っ越した先にも、火曜日はあります」
彼が言った。
「もちろんです。私にもあります」
「その町に、喫茶店が一軒あるんです。駅から少し歩きますけど」
彼は鞄から小さな地図を取り出した。古地図ではなく、スマートフォンから印刷した案内図だった。赤いペンで店の位置に丸がついている。
「これ、何ですか」
「もしよければ、一緒に行きたいと思って。ずっと持ってました」
地図の端が、何度も折り畳まれて柔らかくなっていた。私はその角を指で伸ばした。
帰るとき、佐藤さんは「来週もいつもどおりですか」と尋ねた。
「たぶん、違います」と彼が答えた。
「じゃあ、来週は何を用意したらいいですか」
私は彼を見た。彼もこちらを見た。目が合って、二人でまた笑った。
「まだ決めてません」
店の外は雨が降り始めていた。彼はいつもの傘を持っている。私は傘を忘れていた。
「今日は傘、持ってますか」
「いいえ」
「よかったら、駅まで」
三年前と同じ雨の匂いがした。けれど、歩く速さはもう少しゆっくりだった。
コーヒーは冷めていく。火曜日も、いつか別の曜日になる。でも、冷める前に飲めるものがあることを、私はようやく知った。
おしまい
この作品は、余白文庫のオリジナル短編です。
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