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ファンタジー ・ 約6分

月を貸す店

雨宮いろは

路地裏に「月を貸します」と書いた小さな店がある。

駅前の通りを一本外れ、傘屋と古い時計屋の間を抜けた先。晴れた日には目立たないその看板は、雨が降ると銀色に光った。遥が店を見つけたのは、十一月の終わり、部活帰りの夕立の中だった。

祖母が亡くなって、四十九日が過ぎていた。家ではようやく普通の会話が戻り、母も朝に鼻歌を歌うようになった。けれど遥だけは、祖母の部屋の窓を開けられずにいた。窓際には小さな椅子と、もう動かない目覚まし時計が残っている。

祖母が病院のベッドで最後に口にしたのは、「あの月が見たいね」という言葉だった。秋祭りの夜に見た、川の上の大きな満月のことだろう。遥は「来年また見られるよ」と答えた。二人とも、その来年が来ないことを知っていた。

店の扉には鈴がついていた。ひとつ、低く澄んだ音が鳴る。中には背の高い棚が並び、透明な瓶がいくつも置かれていた。瓶の底で、三日月や半月が、小石ほどの大きさになって揺れている。

「いらっしゃい」

白髪の店主は、読みかけの本から顔を上げた。窓の外は土砂降りなのに、店内の床には丸い月の光が差している。

「満月を一晩、貸してください」

遥は自分でも驚くほど自然に言った。

店主は瓶を選びながら尋ねた。「誰に見せたいの」

「もう、いない人です」

「そう。では、あなたが見るのね」

店主が置いた瓶は掌に収まる大きさだった。薄い水のようなものが入っていて、その中に真っ白な月が浮かんでいる。

「代金は、昨日の記憶をひとつ」

「お金じゃないんですか」

「月を借りる人は、たいてい昨日を少し持ちすぎているから」

遥はすぐに払えると思った。昨日、親友の由菜と喧嘩した。文化祭の写真を整理していた由菜が、祖母の写った一枚を届けようとしてくれたのだ。けれど遥は「今はそんな写真、見たくない」と言い、由菜が何か説明しようとしたのを遮った。

「昨日、友達にひどいことを言いました。その記憶なら、なくなっても構いません」

店主は遥の顔を静かに見た。「忘れたら、謝る理由もなくなるわ。それでも?」

遥は答えなかった。長い沈黙のあと、もう一度頷いた。

店主が栓を抜くと、細い光が天井を抜けて空へ伸びた。雨雲が左右に割れ、さっきまで暗かった通りの上に、金色がかった満月が現れた。遥の足元には、夏でもないのに秋祭りの夜と同じ影が落ちた。

「あれは本当の月ですか」

「本当の月と同じくらい、本当のあなたの月よ。返却は日の出まで」

遥は瓶を受け取り、店を出た。雨はいつの間にか止んでいた。路面の水たまりひとつひとつに満月が映り、まるで街が何百もの空を抱えているようだった。

川へ向かう道で、祖母の声を思い出した。

『月なんて毎晩同じでしょう』

小学生だった遥は、家の屋上でそう言ったことがある。祖母は湯気の立つお茶を両手で包んで答えた。

『毎晩、見ている人が違うからね。昨日と同じ人なんて、誰もいないのよ』

祖母は耳が遠くなっても月を見上げた。遥が進路で悩んでいたときも、試験で失敗したときも、祖母は答えを急がず、ただ空を見る時間をくれた。二人で何も話さない夜のほうが、遥にはよく残っていた。

川沿いのベンチに着くと、スマートフォンが震えた。由菜からのメッセージだった。『あの写真、やっぱり渡したい。無理なら今度でいいから』

遥は画面を見つめた。昨日の喧嘩が、急にぼんやりした夢のように感じられる。腹を立てた理由は覚えているのに、自分が何と言ったのかは思い出せない。瓶の中で、月が小さく揺れた。

やがて由菜から、もう一枚画像が届いた。文化祭の隅に写る祖母は、カメラを見ていなかった。人混みの向こうで、遥のほうを見て笑っていた。その隣には小さな文字で、由菜が付箋をつけていた。『遥のおばあちゃん、見つけたよ』

遥の胸の奥に、昨日とは違う痛みが走った。忘れたかったのは言い過ぎた言葉ではなく、許してもらわなければならない自分自身だったのだ。

遥は店へ走った。傘屋と時計屋の間を抜けた先で、銀色の看板がまだ光っていた。

「昨日を返してください」

店主は本を閉じ、静かに首を振った。

「返せないわ。月を返しても、一度手放した記憶は元の形には戻らない」

「でも、私、謝らないと」

「そう思えるなら、十分覚えていることがあるのでしょう」

遥はカウンターに両手をついた。「昨日の私は、きっと友達を傷つけました。でも、何を言ったか覚えていません」

「それなら、自分の覚えていないところも含めて、謝ればいい」

「それでいいんですか」

「よくないことは、また話し合えばいいわ。明日は、今日のあなたが作るものだから」

遥は店の外へ出て、由菜に電話をかけた。呼び出し音が三回鳴る。

「もしもし?」

「昨日、嫌なこと言ってごめん。何て言ったか、うまく思い出せないけど、傷つけたことはわかる」

電話の向こうで、由菜が小さく息を吸った。「私も、急に写真を持って行ってごめん。見たくない日だってあるよね」

「写真、見たよ。ありがとう」

長い沈黙のあと、由菜は「今、外にいる?」と聞いた。二人は川沿いで会うことにした。由菜は薄い上着のまま駆けてきて、遥の隣に座った。

「どうして今日の月、こんなに大きいんだろう」

「一晩だけ借りたんだ」

由菜は笑って、「返すの、もったいないね」と言った。

二人は祖母の写真を何度も見返した。由菜が、祖母が文化祭で買った焼きそばを半分落とした話をして、遥は泣きながら笑った。知らなかった祖母の一日が、目の前に少しずつ戻ってきた。

夜明け前、満月はゆっくり小さくなり、瓶の底へ帰っていった。遥は空になった夜を寂しいと思った。でも、隣のベンチには由菜がいて、二人の膝には同じ写真が置かれていた。

朝、店の扉を開けると、店主は瓶を受け取って言った。「昨日は、どんな日だった?」

遥は少し考えた。「忘れたくない日です」

店主は満足そうに笑い、空いた棚へ瓶を戻した。

借りた月は、必ず返さなければならない。けれどその光の下で交わした約束まで、返す必要はなかった。

おしまい

この作品は、余白文庫のオリジナル短編です。

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