日常 ・ 約6分
夕方五時の郵便受け
槙野つむぎ
父は毎日、夕方五時になると郵便受けを開ける。
玄関の引き戸がかすかに鳴り、庭の砂利を踏む音が三歩続く。それから鍵が金属に触れ、郵便受けの小さな蓋が開く。雨でも風でも、父は時計の針が五時を指すのを待ってから、決まった手順で外に出た。
私が実家に戻ったのは、その年の四月だった。東京での仕事を辞め、次を決めるまでの仮住まいだと言って荷物を運んだ。母が亡くなって二度目の春。父は私の段ボールを見て「ずいぶん少なくなったな」とだけ言った。荷物の話なのか、私の暮らしの話なのか、聞けなかった。
田舎の郵便配達は、たいてい午後三時より前に終わる。配達員のバイクが橋を渡る音を私は覚えていた。だから五時の郵便受けに、新しい手紙が入るはずはない。
「今日も、何もなかった?」
初めて尋ねたとき、父は「スーパーの広告が一枚」と答えた。夕飯の支度を始めながら、その広告をきれいに二つ折りにして台所の引き出しへしまった。広告なら捨てればいい、と言いかけたが、引き出しの中には同じ大きさに折られた紙がぎっしり並んでいた。
父は昔から几帳面な人だった。靴の踵をそろえ、茶筒の蓋を正面に向けた。けれど母がいなくなってから、買ったばかりの豆腐を冷凍庫に入れたり、洗濯の途中で水道を閉め忘れたりした。私が注意すると、父は苦笑して「考え事をしていた」と言う。
それでも五時だけは間違えなかった。
ある雨の日、私は帰り道に図書館へ寄り、家に着いたのが五時を少し過ぎていた。門を開けると、父が郵便受けの前で傘も差さずに立っている。紺色のシャツの肩が濡れていた。
「どうして中に入らないの」
「おまえ、帰ってくるかと思って」
私には鍵がある。そのことを指摘すると、父は言い直した。「今日は何も来なかったから、少しだけ」
その夜、父の背中が急に小さく見えた。夕食の席で思い切って「五時に誰かが来る予定なの」と聞いた。父は箸を止め、「予定というほどのことでもない」と答えたきり、味噌汁を飲んだ。会話はそこで終わった。
翌週、父は商店街の小さな眼鏡店で新しいレンズを作った。細かい字が見えづらいのだという。受け取りのために出かけた午後、私は台所の引き出しを整理することにした。期限切れの割引券、何年も前の回覧板、薬局の領収書。広告の束の下から、一通の茶色い封筒が現れた。
宛名は父の名前。差出人は母だった。
開けてよいか迷った。封筒の口はすでに切られていて、角が丸くなるほど触られていた。私は便箋を一枚だけ取り出す。
『あなたが先に帰ってきた日は、五時に郵便受けを見てください。何も届かなくても、私が帰ってくる時間だと思って』
それだけでは意味がわからなかった。二枚目の便箋には、若い頃の母らしい、少し右に傾いた字が続いていた。
『仕事が忙しくて、夕方の約束を何度も破ってごめんなさい。私たちが初めて暮らした家では、私は五時のバスで帰っていましたね。あなたは毎日、玄関の外で待ってくれた。今度は私があなたを待つ番だと言ったのに、やっぱり先に出かけることになりそうです。五時になったら、帰ってきた私に「おかえり」と言ってください。返事はなくても、聞こえています』
封筒には日付があった。母が入院する、三か月前。
私は便箋を元に戻し、その場でしばらくしゃがんでいた。母の病気のことは知っていた。それでも父と母だけの時間が、私の知らないところにたくさんあったのだと、初めて理解した。
翌日、近所の花屋のおばさんを訪ねた。おばさんは母と長く親しかった。
「お母さんね、昔、五時のバスを一本逃すたびに、駅前から走って帰ってたよ。お父さんを待たせたくなくて」
「父は怒らなかったんですか」
「怒るどころか、毎回二人で笑ってた。お母さんが先に玄関へ着いた日は、お父さんの真似をして外で待ってたんだって」
母はいつも忙しく、父は寡黙だった。二人の間にそんな遊びがあったなんて、私には思いもよらなかった。
私は少しずつ、台所の広告の束を理解するようになった。父は何も届かなかった証拠を、一枚ずつ取っておいたのではないか。空っぽの日々も、母に会いに行った日々として残したかったのではないか。
六月の第一土曜日、私は仕事の面接で市内へ出かけた。結果はよくなかった。駅からのバスを降りたとき、四時五十三分だった。いつもなら、遅いバスに乗って遠回りでもして帰っただろう。落ち込んでいる顔を父に見せるのが嫌だったから。
けれど私は、住宅地の坂を歩き始めた。五時まであと七分。靴擦れが痛み、額に汗がにじんだ。途中で信号が赤になり、私は子どものように足踏みした。そんなに急ぐ必要は、どこにもないはずなのに。
五時ちょうど。門を開けると、父は郵便受けの前にいた。小さな広告を手に持っている。私の足音に気づき、ゆっくり振り向いた。
「おかえり」
その言葉が口から出たのは、考えるより先だった。
父は驚いたように目を細めた。それから、何かを確かめるように私の顔を見て、ようやく笑った。
「ただいま」
家に入ると、父は面接のことを聞かなかった。麦茶を二つのグラスに注ぎ、「今日は暑かったな」と言った。私は「うん」と答えた。そして、もう一度だけ尋ねた。
「明日も五時に開けるの?」
「たぶんな」
「じゃあ、明日は私が先に帰って待ってる」
父は返事をせず、テーブルの上の封筒に目をやった。私が読んだことに気づいたのだろう。それでも責めなかった。
次の朝、私は白い便箋を一枚買いに行った。『遅くなる日は連絡します。五時に間に合ったら、私にも「おかえり」と言ってね』と書き、封筒に入れて郵便受けへ落とした。
父はその日も五時に外へ出た。戻ってきた手には広告と、私の封筒があった。父は何も言わず、茶色い封筒の隣にそれを置いた。
私は台所でご飯をよそっていた。玄関から聞こえたのは、父の小さな声だった。
「おかえり」
五時の郵便受けには、もう一度、返事が届いた。
おしまい
この作品は、余白文庫のオリジナル短編です。
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