ホラー ・ 約7分
窓の外の四番目
霧島 梢
引っ越して最初の夜、窓が三回叩かれた。
コン、コン、コン。
二階の部屋である。ベランダはなく、窓の外には、道路の向こうまで伸びる古い柿の木しかない。枝が当たったのだろうと思ってカーテンを閉めた。
部屋は駅から徒歩十五分の古いアパートだった。家賃が安く、駅前には遅くまで開くスーパーがある。仕事の都合で急いで住まいを探していた私には、それで十分だった。
翌日の零時十七分にも、窓は三回鳴った。翌々日も同じだった。風が強い日も、まったく吹いていない日も、間隔と音量が変わらない。
四日目、私は窓を開けて外を確認した。柿の木の枝は、窓から一メートルも離れている。道路に人影はなく、街灯の下の自動販売機だけが青白く光っていた。
廊下で会った管理人に話すと、彼は手にしたほうきを止めた。
「三回ですか」
「はい。毎晩、同じ時間に」
「四回目は、聞こえましたか」
「いいえ」
管理人はなぜか、ほっとしたように息を吐いた。
「それなら、まだ大丈夫です」
冗談にしては声が硬かった。説明を求めると、彼は「夜中は窓を開けないほうがいい」とだけ言って階段を下りていった。
私は仕事で音響機器を扱っている。音がどこから来るのか、録音すればある程度わかる。次の夜、机に小さな録音機を置き、窓際にもう一台のスマートフォンを伏せた。どちらも録音を始め、電灯をつけたまま待った。
零時十七分。
コン、コン、コン。
録音機の表示が赤く跳ねた。音は間違いなく窓の外側から来ている。窓ガラスに触れてみたが、冷たいだけで振動は残っていない。
さらに十秒ほど経ったとき、もう一度音がした。
コン。
四回目だった。
電灯が一度だけ暗くなった。カーテンに、細い影が落ちる。人の形ではない。窓枠そのものが、少しずつ内側へ曲がっているように見えた。
私は慌てて明かりのスイッチに手を伸ばした。しかし、いつもの位置に何もない。壁はつるりと白く、スイッチの跡さえなかった。
机も、椅子も、脱ぎ捨てた上着もある。それなのに部屋だけが、何かを一つずつ忘れているようだった。
録音機のランプが、規則正しく点滅していた。私は再生ボタンを押した。自分の声が聞こえた。
「四回目が聞こえたら、絶対に窓を開けないで」
そんな言葉を録音した覚えはない。再生位置の表示は、三日前の夜を指していた。録音機には新しいデータしか入っていないはずだった。
続いて、短い息づかい。やはり私の声が、低く言った。
「もう一度、数え直して」
突然、窓が鳴った。
コン、コン、コン。
私は音を数えた。三回。さっきの四回目を含めて、全部で七回だ。数字を数えることに、こんなに集中したのは小学生以来だった。
「さっきの四回目、あなたが叩いたでしょう」
窓の向こうで声がした。
私の声だった。
右手を見ると、人差し指と中指の関節だけが濡れていた。ガラスに触れた覚えはない。それでも、冷たい水滴が指を伝って落ちた。
私は部屋を出ようとした。玄関のドアには鍵がかかっていたが、鍵穴の位置が昨日と違う。右手にあったはずのドアノブが、左手についている。
「ここは、どこなんだ」
自分に聞いたつもりだった。すると録音機が、私より先に答えた。
「四番目の部屋」
再生は止まっていた。声はスピーカーからではなく、部屋の天井あたりから聞こえた。
私は管理人に電話をかけた。三度目の呼び出しでつながり、事情を早口で話した。彼は一度も質問せず、最後にこう言った。
「今、窓は閉まっていますか」
「はい」
「窓の外の景色は、道路ですか」
カーテンの隙間から覗くと、そこには向かいのアパートの部屋が見えた。昨日までなかった建物だ。窓の向こうに、机と椅子がある。同じ型の録音機が置かれている。
「いいえ。同じような部屋が見えます」
管理人は小さく舌打ちをした。
「四回目を聞いたら、数を足さないでください。最初からやり直すんです。三回だけが、こちら側です」
「どういう意味ですか」
「私は昔、あなたと同じ部屋に住んでいました。説明する時間がない。窓を叩く音が三回したら、三回だけ叩き返してください。それ以外は、何が聞こえても返事をしない」
通話が切れた。
私は窓から一歩下がり、息を殺した。道路の音はしない。冷蔵庫の低いうなりも消えていた。部屋の時計は、零時十七分で止まっている。
コン、コン、コン。
今度は窓ではなく、向かいの部屋の机のあたりから鳴った。私はガラスに指を当て、言われたとおり三回叩いた。
コン、コン、コン。
向かいの窓に人影が立った。私と同じ背丈で、同じ服を着ていた。顔は見えないが、右手をこちらへ伸ばしている。
その手がガラスを四回叩いた。
私は返事をしなかった。
背後で、玄関の鍵が小さく回る音がした。振り向くと、ドアノブは元の位置に戻っていた。電気のスイッチも壁にあった。窓の外には道路と柿の木が見える。
部屋の時計は、零時十八分を指していた。
翌朝、管理人に礼を言いに行くと、彼は私の右手を見て頷いた。
「帰ってこられたんですね」
「四番目の部屋って、何ですか」
彼は古い鍵束を取り出した。四本の鍵がついている。三本は普通の銀色で、一番端だけ黒かった。
「昔、このアパートには四つの部屋がありました。火事のあと、三つしか建て直さなかった。でも時々、なくなった部屋が、自分の番を取り戻そうとするんです」
私は笑おうとしたが、うまくいかなかった。
その夜、私は引っ越し先を探し始めた。次の住まいが決まるまで、録音機は机の上に置いたままだ。二度と再生ボタンは押さなかった。
けれど、三週間後に退去する朝、録音機の表示が勝手に点灯した。
「新しい録音があります」
表示された時刻は、翌日の零時十七分。
まだ来ていない夜の音声だった。
私は聞かなかった。代わりに電池を抜き、封筒に入れて部屋の鍵と一緒に管理人へ渡した。
「四回目が聞こえる前に、次の人に教えてあげてください」
管理人は封筒を受け取って、ひどく疲れた顔をした。
駅へ向かう途中、携帯電話が震えた。知らない番号から届いたメッセージだった。
「三回で済みましたか」
返事はしなかった。
踏切を渡ったとき、ポケットの中から小さな音が聞こえた。
コン、コン、コン。
おしまい
この作品は、余白文庫のオリジナル短編です。
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