青春 ・ 約6分
最後の白線
朝倉せな
夏の大会が終わった翌朝、グラウンドの白線は半分消えていた。
雨は夜明け前にやんだらしい。外野の芝には小さな水滴が残り、三塁側のベンチには昨日使ったタオルが一枚、掛けられたままだった。
私たちのチームは、一回戦で負けた。九回裏、二死二三塁。最後の打者だった私は、内角低めの速球を見逃して三振した。審判の右手が上がった瞬間、歓声が遠ざかり、帽子のつばに落ちた汗の音まで聞こえた気がした。
バットを振れなかったことより、ベンチへ戻ったとき仲間の顔を見られなかったことが悔しかった。
三年生の夏は、それで終わった。
翌朝、私は誰にも言わず学校に来た。教室には戻りたくなかったし、家にいても試合の映像が頭から離れなかった。自転車を野球部の倉庫に寄せると、グラウンドのほうで車輪の軋む音がした。
マネージャーの真帆が、ラインカーを押していた。
「何してるの」
「消えかけてるから」
彼女は当たり前のことのように答え、ホームベースから一塁へ向かって歩いた。白い粉が細く落ちて、朝日に浮いた。
「明日から、もう練習ないよ」
「うん。だから今日だけ」
真帆は三年間、誰より早くグラウンドに来た。選手が走る前にベースの位置を確かめ、雨が降れば濡れたボールを拭いた。私が腰を痛めたときは、監督より先に湿布を持ってきた。
思い返せば、彼女がラインカーを押しているところは毎日見ていた。でも、自分で押したことは一度もなかった。
「予備、ある?」
真帆は倉庫を指さした。私はもう一台を運び出し、三塁線に立った。手元のレバーを引くと、粉が思ったより勢いよく出て、線が太くなった。
「そんなに急ぐと曲がるよ」
彼女が笑った。
私はレバーを調整して、白い線を引き直した。目印は見えているのに、まっすぐ歩くのは難しい。足元を見すぎると前へ進めず、遠くを見すぎると線が波打った。
「いつも、こんなことしてたんだ」
「そうだよ。最初の頃、私の線も蛇みたいだった」
「全然気づかなかった」
「気づいてたら、もっと早く上手くなってたかも」
真帆はわざとらしく肩をすくめた。
一塁側の線と三塁側の線が伸びるにつれ、昨日の試合のことを話せるようになった。二回表、相手の走者が飛び出したのを刺したこと。四回裏、後輩の佐々木が初めてバントを決めたこと。八回の守備で、風に流された打球を中堅手がぎりぎり捕ったこと。
「最後の球、振ればよかったかな」
私は言った。
真帆はラインカーを止めて、私のほうを見た。
「振らなかったことも、ちゃんと野球だと思う」
「それ、慰め?」
「慰めじゃない。記録に残るでしょう。見逃し三振って」
「できれば、残したくないな」
「でも、あの一球まで行けたのは、それまでの全部があったからだよ」
私はレバーから手を離した。最後の一球だけを思い返して、そこまでの百何十球を消していたのかもしれなかった。
二年生の春、私たちは部員が九人しかいなかった。雨漏りする倉庫で練習し、ボールが足りず、一つの球を何度も磨いた。冬には投手が肘を痛めて、試合ができないかもしれないと話し合った。
そんなチームでも、毎朝グラウンドへ来れば、白線は引かれていた。昨日の線が雨に流されても、その日の練習は新しい線の上で始まった。
「私、最初は野球のルールを全然知らなかった」
真帆が言った。
「知ってる。入部してすぐ、三振を三アウトだと思ってた」
「そう。だから大会のとき、記録用紙を書き間違えないかずっと怖かった」
「真帆が?」
「私だって怖いよ。間違えたら誰かの記録がなくなっちゃう気がして」
彼女は白い粉の袋を持ち上げた。
「でも三年間やってわかった。全部を完璧には残せない。残せるところを、毎日ちゃんと残すしかないんだなって」
私は昨日の試合の記録用紙を思い出した。最後の欄には、私の名前と三振を表す記号がある。その前には、仲間の安打、犠打、失策、盗塁、四球が並んでいる。
「記録用紙、見せてもらっていい?」
「部室にあるよ。あとで一緒に見よう」
白線を引き終え、私はホームベースの前で立ち止まった。昨日、見送った球はここを通った。私がもう一度立っても、同じ球は二度と来ない。
それを考えたとき、初めて、少しだけ呼吸が楽になった。
「ねえ、真帆」
「なに?」
「来年、あの子たち、もっと強くなるかな」
「なると思う。だって昨日の帰り、もう練習メニューの話してた」
後輩の佐々木が、来年は一番を打つと言っていた。背番号の大きかった投手も、冬までに球速を上げたいと話していた。私たちの引退と、彼らの始まりは、同じ日の出来事だった。
倉庫にラインカーを戻そうとすると、校門のほうから自転車のブレーキ音が聞こえた。
「先輩!」
後輩たちが三人、慌てて駆けてきた。佐々木は部活用のバッグを肩にかけ、まだ寝癖がついている。
「今日、もう来ないと思ってました。練習してもいいですか」
「もちろん」
私は答えた。けれど何から始めればいいか一瞬わからなかった。真帆が笑ってラインカーを差し出した。
「じゃあ、最初にこれお願い」
佐々木は不思議そうに受け取り、グラウンドを見た。
「もう線、引いてありますけど」
「明日も引くんだよ」と私は言った。「今日の分が消えたら」
後輩たちがボールを持って走り始めた。真帆と私は一塁側の外に出て、その様子を見た。
「最後の球、振ればよかったと思う?」
真帆がもう一度聞いた。
私は考えてから答えた。
「今でも思う。でも、それだけじゃないって、今日は思える」
彼女は頷いた。言葉にすると、そこまで難しいことではなかった。
白線の上を、後輩がスパイクで駆け抜けた。新しく引いたばかりの一塁線が少し崩れた。真帆は一瞬だけ顔をしかめて、すぐ笑った。
これから先、あの線の上を何人も走る。雨が降れば消え、風が吹けば薄くなり、誰かがまた引き直す。そのうち誰も、私たちが今朝引いた白線のことを知らなくなる。
それでいい、と私は思った。
消えても、次に立つ人がいる。そのための線だったのだから。
おしまい
この作品は、余白文庫のオリジナル短編です。
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